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細木、ハツとして、これも、座を起つて、そつと姿を消す。

オレは映画を作っていた。映画といってもビデオで制作されるせこいC級作品だ。毎回必ず女の裸が全体の八割をしめるビデオ作品。つまり、アダルトビデオだ。別に自分の仕事を卑下するつもりはないが、かといって、オレはこの仕事に誇りを持っている、と公言するほど馬鹿でもなかった。友人と仕事の話はなるべくしないようにしていたが、どうしても仕方のないときは企業PRビデオという事でごまかした。オレはふた月に一本の割合で量産されるそのビデオ作品の制作を任されていた。任されていたというと大変そうに聞こえるかもしれないが、そうでもない。出演者も制作スタッフも毎回ほとんど同じだ。

「あはは……」

第四部

看護婦わたくしが差しあげようとしても、なんにも召しあがりませんのですが、奥さまが無理におすすめになりますと、それでもいくらか……。

「やア、その節はいろいろと……」

自然科学に於ける――一般に凡ての科学に於ける――法則は何のために求められるのであるか。無論普遍的な関係を求めることが法則の目的には違いないが、この普遍的な関係が更に何のために求められるのか。それは、之によって個々の現象を統一的に説明し得ようためである。法則の目的はそれ故実は一般化ではなくして一般化を通じて個々のものを理解することになければならない。単に普遍的関係を見出しただけでは――なる程それだけでも知識上の一つの収穫ではあろうけれども――、法則は法則としての本来の機能を現わすことは出来ない。例えば社会が次第に分化して行くという普遍的な関係を指摘し得ても、この関係によって個々の社会現象が今まで出来なかった仕方に於て説明され得、又之を機関として更に個々の現象の研究を進め得る、そのような実践的機能を有たない限り、その関係はただ単に法則の名を有っていると云うまでである。之を法則と呼ぶのは差閊えないであろう。そのようなものを法則と呼んで法則の名に満足することは、法則概念自身が許さない*。ケプラーの法則はただ天体界の普遍的関係であるのではなくして、之によって諸々の星の軌道を計算し得るものでなければならないであろう。法則は、法則概念の性格それ自身によって、単なる普遍的関係ではなくして、与えられたる諸現象を説明し得、且つその上に、未だ与えられない諸現象へ理論を嚮導し得る資格をもたなければならない。この与えられたる又未だ与えられない諸現象――それは普遍的ではなくして個々の現象である――を法則が規制するのでなければ、法則は本来の法則ではない。法則の目的は個々の現象を統一的に記述することに存在する、普遍的関係を用いることはそれの一つの手段の外ではない。法則は普遍者に到着することが目的ではなくして個々の現象に還ること――それこそ学問的実践である――を目的とするものであることを特に吾々は注意しなければならない。この意味に於て、法則の有つ一般化はGeneralisierungではなくしてIsolierungと呼ばれることに重大な意味があるであろう。リッケルトの法則概念はこの関係を意識することに於て、散漫であった。

透察の普遍性の第二の条件、それは透察が正面的であることを求める。もし事物を任意の側面から透察してよいならば、そのような透察を他の夫に較べて、より包括的・多面的に見せ掛けることは、恐らく容易であるであろう。折衷妥協は恰もこのような普遍性をもつ処のものである。処がこのような普遍性は透察という多面性を保証するどころではなく、却って正にそれの喪失でなければならない。何となれば、事物の本来の性格がそれによって失われればこそ折衷や妥協が批難されるのであるが、事物のこの性格を把握しないような透察は少くとも学問的であることが出来ないから。之に反して徹底の概念は事物の性格を明白にし強度にすることを意味する。それが折衷と妥協とを斥ける点に於て、到底折衷と妥協とがもつかの普遍性をもつことは出来ない、その限りそれは偏狭とも見える理由をもつ。併しこの場合の普遍性が学問性――それが今は透察である――と無関係であった限り、それに反対する意味に於ける今の場合の偏狭も亦、学問性とは関係がない。徹底は透察の学問性に対して、包括性とは系統を異にした寄与をなす。それは事物の性格を把握し出す。事物の側面――それは性格ではなくして偶然な性質に外ならない――をではなくして事物の正面――性格はそこに姿を見せている――を照らす。透察はより正面的であるに従ってこの普遍性を得ることが出来る。徹底の概念がその一例を示している(論証に於ては折衷や妥協は非難される理由がなく、又徹底という概念は無意味でさえあるであろう。論証が厳正であるか否かが論証の価値を決めるのであって、之を他処にして論証が徹底的であるということが何を意味するかを吾々は理解出来ない。事物の性格――正面性――は論証され得ない、透察し得るだけである)。

「判った、判った。もう泣きな、泣きな。ミネちゃんが泣くと、おっさんまで泣きとなる」

事実の上に立脚するという、日本のこの頃の文芸が、なぜ社会の根本事実たる、しかも今日その絶頂に達したる、かの征服のことに触れないのか。近代の生の悩みの根本に触れないのか。さらに一歩進んで、なぜそれに対するこの反逆の事実に触れないのか。この新しき生、新しき社会の創造に触れないのか。確実なる社会的知識の根底の上に築かれた、徹底せる憎悪美と反逆美との創造的文芸が現れないのか。

科学論――方法論――は論理学として現われ、この論理学は又認識論として性格づけられる。之はカントの批判主義――形式と内容との対立――に立つ時必然である。処で吾々がカントのこの立場に止まることが出来るかどうかを今は問わないとして、この立場自身が何故必然的であるかを理解する義務を吾々は有つ。

二十六日L.A.を立ち、サンフランシスコ着

A――少しも悲しいとは思わない。俺は常に、いつ死んでもよいような生き方をしてきたのだ。生きている間は、生きることを楽しみ、死ぬ場合には、死ぬことを楽しむのだ。生きたいとか死にたいとか、そういう欲求は俺にはない。俺にとっては、生も死も結局同じものだとしか考えられない。

今もし学問が知識の所産と考えられるならば、学問の分類がまず第一に精神能力――学問に関する限りそれが知識である――を標準として考えられるということは必然である(学問概念が、知識概念として、又方法―対象の構造に於て、又学問性概念として、理解され得るのを初めに述べたことを茲に思い起こせ)。何となれば精神能力は知識のもつ第一の性格であるかのように見えるからである。フランシス・ベーコンは理性的精神の三つの能力を区別する、記憶・想像・理性。この三つの精神能力の所産が夫々歴史学・文学・哲学であることは一般に知られていることである。ベーコンのこの分類は後に主としてアランベールによって訂正を加えられた。この分類がどこまで正当でありどこから不充分であるかは、特に吟味を必要とはしないであろう、吾々はそれを省く。それよりも吾々にとって必要であるのは、精神能力が学問分類の原理として、再び、果して正面的であるか無いかである。併し元来、知識が単に精神能力として理解されることが、一体正面的であったか。精神能力とは、全く人々の主観に於ける、従ってその限り客観的ではない処の、一つの働きを意味する概念であるであろう。処が之に反して知識は単に主観的な働き――精神能力――しか意味しない概念ではない。例えば吾々は知識を交換し知識を蓄えるという言葉を有つ。精神能力を交換したり精神能力を蓄積したりする(それは能力を訓練することではない)ことは、無意味であろう。知識は一般に客観的であることが出来る性質を持っている。まして知識の集成としての学問は、常に客観的でしかない。それは現実的な、歴史社会的な――それこそ客観的である――存在であった。それ故精神能力によって知識概念を正面的に理解することは出来ない。まして学問は精神能力によって正面的に把握されないことは明らかである。故に精神能力の区別による学問の分類は正面的ではない*。実際、主観的にしか過ぎない精神能力に対しては、之と並行して夫々の客観的な対象が考えられるのを普通とする。例えば、直観・知覚・理性などの能力に対応して、観念的・事実的・道徳的などの存在が掲げられることが出来るであろう**。そうすれば精神能力による分類と考えられたものはこの時、実は、単にそれだけではなくして、同時に対象による分類でもなければならないわけである。そうすれば、この分類が精神能力を原理とするというのは、ただ名目の上に過ぎないのであって、実は対象の区別こそこの分類の原理でなければならないと考えられる理由も出て来るであろう。現にベーコン自身、精神能力によって第一次の分類を与えながら、この各分科を更に第二次的に分類するに際して、すでに学問の対象をば分類の標準として選んでいるのである***。さて茲に人々は対象による分類へ移る機会をつかむ。――但し精神能力に対立する意味での対象は実は客観に外ならなかった、之に対する主観がこの精神能力であった。故に精神能力の側から出発すれば主客の対立を脱却することは出来ない****。処が吾々が前から意味していた対象の概念は主客の対立に基いてはならなかった筈である、それはそのような認識論的対立に於てはなかった、対象は方法に対立しなければならなかった。故に今のこの機会は、恰も吾々が主客対立の立場を破棄しなければならなくなった機会に外ならないのである。
PR

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