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「ところで、あの時、あなたのあとで、落語をやった男がいるでしょう?――この赤井君です」

里奈だった。里奈がオレのベッドの横に立っていたのだ。オレは驚いて身体を起こした。里奈はそんなオレを見て笑っている。どうして、君がここにいるんだ。オレがそうきくと、里奈はこう言った。あなたの足にしがみついた女の人がいるでしょ。あれ、私の母なの。それを聞いて、オレはもう一度、気を失いそうになった。確かにその女の目は里奈に似ていた。しかし、それはなんと言っていいのか、あのパニックのなかで遭遇した偶然であって欲しかったのだ。が、現にオレの目の前には里奈がいる。これが夢でなければ現実に違いなかった。里奈は混乱するオレを見て笑っている。オレは起こした身体をもう一度ベッドに寝かせて、頭の中を整理しようとした。オレはあの時に身体をひどくねじったようだ。考えようとすると、身体の節々が痛んだ。里奈は部屋の隅に置いてあるピアノの前に座って、弾きだした。新世界交響曲だった。オレは里奈が弾く新世界交響曲を聴きながら再び眠りに落ちた。

五月十三日友情についての議論(鶴見氏に対する。)

すぐ近くの、お寺の庭に、四五本の大きな銀杏樹がそびえ立っている。そばへ行って調べてみると、三本で、それが見ようによって、四本にも五本にも見える。こんもり茂っているのだ。その樹に、雀がたくさん巣くっている。朝早くから起きて、ピイチク、チュクチュク、ピイチク、チュクチュク、騒がしいったらない。朝日の光りがさしてくると、ぱっぱっと、一群れずつ飛び立ち、四散して、どこかへ行ってしまう。そして夕方また帰ってくる。何をしているのか、ピイチク、チュクチュク、ピイチク、チュクチュク、騒ぎまわって、薄暗くなるとひっそりしてしまう。

一家族を単位とする生活が、いはゆる家族主義の名のもとに、あまりに、家族本位になりすぎていたことも、かういふ時代に、反省してみなければなりません。国家を形づくる一細胞としての家と家とは、今日まで、ほとんど利害を同じくするところのない他人同士で通つていたのであります。さういふ風にして近所と対立している家の生活といふものには、なによりも、経済と神経の浪費が数へられます。大都市に於ては殊にさうであります。

私は笑顔をした。

最後に、浦さん、玉石堂も昨今悪戦苦闘らしいが、僕の印税の残りは、なるべく早く都合してくれたまへ。将来のことは、約束してもらはなくつていい。売れない本を無限に売るのは、ない智恵をしぼるよりむつかしいに違ひない。ただ、どうせ売れないからといつて、世間から不当に早く忘れられるような結果をわざわざ招く必要はない。『カント哲学の本義』だけは、時々、広告をしてくれたまへ。いや、そんなことはしないでおいてもらはうか。誰かが覚えていて、わざわざ店へ探しに来た時、一部でも二部でも、出して渡してやれるやうにしておいてほしいもんだ。それから、僕の現在の講義だが、ノートはすつかり出来てるんだし、あれをひとつ、細木君にでも整理してもらつて、出せれば出してくれるとありがたい。『近世に於けるドイツ哲学の諸問題とその歴史的意義』といふ題だが、ちよつと類のない研究だと思うんだ。まあ、これも、君の方で、価値ありと認めれば、だ。もちろん、ジァーナリスチックを立場からさ。それから、もうひとつお願ひがある。今年の卒業生で一人、可なり優秀な青年だが、編集の方へ使つてもらへないだらうか。これも考へといてくれたまへ。あ、その返事は、細木君の方へ頼む。細木君、わかつてるね。ああ、これで、だいたい、みなさんにお別れの言葉を言ひつくしました。さあ、もうこれでなにも思ひ残すことはない。安心して眼をつぶります。お忙しいところをどうもありがたう。お引きとりください。

一寸思ひ出したのはこんな事だ。

お約束のMademoiselleHanakoを連れて来たと云つた。

「いや、知らん。あんたが知らんもん、俺が知る道理がないやろ」

二十四日Fromhisdiary.

[#改段]

翌晩私は、素面の夜は決して堪へられぬので、泥酔すべき覚悟をきめて村境ひの居酒屋に出向くと、酒場の隅で次のような話に花が咲いていた。(その一節。)
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