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廿四日夕K・K

今にして私ははっきり思い当る。あの人たちすべて、ヴァージニティーを失っているのだ。精神的なことを言うのではない。単に肉体上のことだ。男たちはもう童貞を失っているし、女たちはもう処女を失っている。肉体のことだ。饐えた匂いがしていた。ざこ寝だってなんだって、平気で出来るだろう。

と言つている。兎も角公羊學派の人々は尚書の末尾に費誓以下、甫刑、文侯之命、秦誓の諸篇のあることを重大なる疑問と考へたことは疑ない。尤公羊學派は僞古文を斥けず、それ故宋翔鳳は此外に蔡仲之命をも數へているのである。さて斯かる疑問の生ずるのは何人が考へても自然である。是は公羊學派の説く如く詩書は皆正より變に入つてゆくものであつて、詩に於て最後に魯頌、商頌のあることは一の疑問であると同樣に、尚書に於ても以上の諸篇のあることは異例とすべきものである。是に就いては五帝三王の外に五覇をも認める意味でしたものだとする公羊家の解釋も一應は首肯されるが、然しそれでは落ち付きの惡い理由は、前に述べたる如き孟荀等正統の儒家の思想と一致しないといふことである。

二十日美濃部がオペラに誘う。岩本のことづて。

併しそれと違つた賑やかさが此間を領している。或る別様の生活が此間を領している。それは声の無い生活である。声は無いが、強烈な、錬稠せられた、顫動している、別様の生活である。

加来できる。できない筈はない。四紋とネラ子をここへ呼びなさい。

二十三日L.A.着、あの心持SanGabrielを見物

この長い髪は、夜寝るときには枕もとにたばねて寝たのであるが、ひんやりとしたみどりの黒髪の枕が、首筋にふれる気持ちは悪くはなかったであろうと思う。

尤もさうしたのはあまかはばかりで、肉はまだ芽ぐんでもいぬ。孟宗がお袋にねだられて雪中掘つたといふは、さうした小さなものであつたらう。氷の上で寢て鯉を捕つた王渉の話も、考へて見れば、鯉は寒中が一番うまい。食心棒ならずとも、さうした折に筍がたべたい鯉がくひたい位は言ふ。それを二十四孝に數へた支那人が頓馬なのである。

「自分で漕ぎましたか。」

今試みに一つの存在論的理論を構成して見ることが必要となった。

「Oui-beaucoup-Monsieur!」と答へると同時に、久保田はこれから生涯勉強しようと、神明に誓つたような心持がしたのである。

そして、そわそわと逃げるように立ち去った。顔に靴墨の跡を残したまま。

方法的理解――方法を中心とする中枢的把握――と云ったが、併し方法とは何であるか。無論私は学問(乃至学問研究)の方法に就いて答える。そして夫と反対――反対の意味は後に説明される――なものを通じてそれを分析するのが適わしい。方法に反対なるものは対象である*。対象は方法の目的であり、方法は対象の出発点であると云ってよい。吾々が方法によって通達するもの、それが対象である。処で或る特定の対象に対して或る特定の方法があるのが至当であると思われる。もし任意の対象に対して任意の方法が適わしいとすれば、特にこの学問の方法というような事を吾々が問題としてそれに関心を有つ理由がない筈である。処が方法が吾々にとって抑々問題となるのは、之がこの学問又はかの学問の夫々の性格を云い表わすからであった。故に特定の対象に対して特定の方法が対立する。今仮に、特定の方法と之に対する特定の対象という二つの既知の概念を用いて、さし当り最も形式的な出発をとるとすれば、論理的に必然な選言として次の四つの場合が現われて来る。(一)対象が方法を決定するか、(二)方法が対象を決定するか、(三)それとも対象でも方法でもない第三者が両者を同時に決定するか、(四)それとも又方法と対象との相互決定であるか。何となれば、特定なものとそれに対立する特定なものとの間の関係を、最も一般的な言葉をかりて、決定と呼んでよいから。恐らく第一の場合は、素朴的乃至独断的、或いは或る意味に於ける実在論的立場と呼ばれるものを云い表わし、第二の場合は「コペルニクス的転回」を経た批判的乃至或る意味に於ける観念論的立場と云われるものを代表するであろう。けれどもこの二つの立場の是非は、或る手懸りを得た後に初めて決定されるべきであって、始めから之を決定して出発することは吾々にとって不利である。何となれば方法と対象との内、何れかが特に優先権を有つ事は形式的出発としては許せないから。第三の場合は方法と対象とへ同じ権利を与える点に於て形式的に整っているには違いない、けれどもその第三者とは何か。吾々は今方法と対象との二つの概念しか知らない。第三者は「或るもの」の外何とも云うことは出来ない。処がそのような「或るもの」から出発することは常に不可能である。何となれば或るものとは、何物の手懸りにもなることが出来ないという意味に於て、一つの逃避的概念であるからである。たとい方法と対象との総合がそれであると云っても、その場合のように単に総合するための総合こそは、折衷の概念がそれを説明しているように、一つの代表的な逃避的概念に外ならないであろう。かくして残るものは第四の場合――相互決定――だけである。第一にそれが形式上の整備を有っていることは明らかである。次にそれは出発の手懸りとなることが出来るに違いない。相互決定の概念が決して逃避的概念ではなくして生産的な概念であることを、私は次第に明らかにして行けるであろうから。
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