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「――おかげで退屈しないで済みました。汽車の旅って奴は、誰とでもいい、道連れはないよりあった方がいいもんですなア。どんないやな奴でも、道連れがいないよりあった方がいい」

蜆をからごど食つたのは作話としても、田にしを喰べぬはなしは嘘では無い。越後は不思議の國だ。雪はもう溶けるであらう。

煙いや、わたしもかねがねこちらの先生とはご懇意にねがつていますが、理窟としては、それができても、情において忍びないような気がします。

「イヤイヤオトナニナツタラ、コヤクラヰノオホキサニナル」

やがて、汽車が大阪駅につくと、白崎は赤井と別れて上本町のわが家に帰って行った。

自然科学に於ては、――中にもその典型的なものと見做されている理論物理学に於ては――、特殊な性質を有つ対象は例外として取り除かれる。尤も自然科学の各対象が皆同様であって異っていてはならないと云うのではない。一つの一般的法則の下に摂しられる諸現象は無論同じではなくして別々でなければならないであろう、もしそうでなければ法則の普遍性――共通性――という概念自身が成り立つ理由がない筈であるから。併しこの場合単に異るということと個別であるということとは区別される必要がある。カエサルがルビコン河を渡ったという事実は無論、他の人が之と同じくルビコン河を渡ったという他の一つの事実と同じではない、それは異った二つの事件である。併し今この事を、或る誰人でも好い二人の人間がルビコン河を渡った事件としてのみ見るならば、二つの事件は異っているにしても共通の普遍的事件の二つの場合に過ぎないであろう。渡った一人はカエサルと呼ばれたローマの将軍ではなくして偶然に選び出された人類の一員でしかないであろう。この場合のカエサルは他の何人によっても置き換えることを許さない歴史上唯一の個人としてのカエサルではなくして、向の他の一人に対して単にその人と異る処の一人の人間に過ぎない。処が之に反して歴史上の個人としてのカエサルはこの人間に対して個別な人間でなければならない。前者は云わば量的個別、後者は質的個別――それのみが本当の個性をもつ――である。両者は別である。そこで自然科学の対象は量的個別は有つであろう、質的個別に対しては歴史科学のみが関心を有つのである。事実、歴史家は或る対象が普遍的な・一般的な性質を有つ限り、之を記述するのではなく、それが特殊であり個別的であり個性を有つ限り、之を記述する理由を見出すのである。歴史科学的概念構成はそれ故個別化に基く。

一九三二・一〇

(思うに現代の最も著しい特色の一つは生活の学問性が強調されていることにあるであろう。生活の指導原理は今や、ゲミュートではなくして正に学問的(又科学的)であることになければならないと考えられている。人々は之を主知的であらんがための合理主義的・啓蒙主義的傾向と混同してはならない。今日の学問性は主知的であらんがためではなくして却って恰も実践的であらんがためのそれなのであるから。実践生活の方法として、時代は学問(科学)を要求しつつあるであろう。このような傾向が何故可能でなければならぬかという必然性を今吾々は見た。今見たこの必然性に従ってこの学問の学問性はもはや対象の高貴や体系の壮麗であることに満足するを得ずに、恰も方法のかの批判性にまで徹底しなければならなかった。事実、要求されつつある学問性は生活の原理・生活方法としての社会的自己批判と考えられている。このような自己批判としての学問性は学殖の崇拝や教育又は功利への関心からは発生しないであろう。恰もこの意味に於て、そして又言葉の原理的に純粋な意味に於て、現代の学問性は哲学的であって詭弁的ではない。)

白崎が狼狽しているので、彼女はふっと微笑した。すると、白崎はますます狼狽して、

お才が越後から來たてに、私の地方で田にしを食ふのを見て、さもさも穢い物をくふかのやうに目を剥いていたが、越後あたりでは喰べないのであらうか。外ではどうあらう。上總の片貝へ行つた時、あの邊では目籠をかかへて拾つていたから、千葉縣あたりは食ふらしい。

「京都もやられたさうですね、あれに」

一カ月後、次の作品の撮影に入った。オレはもう一度、里奈を使おうと思っていたのだが、まったく連絡が取れなかった。あきらめたオレは、街で引っかけた女を出演させることにした。酒に酔った勢いでオレがビデオに出させてやると約束してしまったのだ。女の胸は貧しかった。小さくて垂れているだけじゃない。ろくなセックスを想像させない胸だった。高野がオレの耳元で囁いた。こいつひどいよ。ブスだしさ、胸ないしさ、どうする。どうするったって、時間ないんだからなんとかしてよ。仕方ないねえ、それじゃあ、ハードなアナルでも行きますか。最近、高野はスタッフから、アナルの高野と呼ばれている。高野は女の方へ行って、アナルの交渉を始めた。オレは離れて見ている。女が泣きだした。そんな下品なこと、私できません。そう言って、女は泣きながらオレを見た。オレは驚いた。オレは勃起したのだ。たぶん、目の前の女に勃起したわけじゃない。女の泣いている瞳を見て、里奈の瞳を思い出したのだ。オレは里奈に惚れてしまったのかもしれない、そう思った。少なくとも里奈の瞳の虜になっていたのだと思う。他のスタッフにばれないようにオレは現場を抜け出した。

女はさういつて起たうとするので、哲郎は絡んでいた指を解いた。と、女は起つて棚の黄ろなボール箱に手をやらうとしたが達かなかつた。

処が更に、教導性――内容的普遍妥当性――は、学問性のまだ抽象的な規定に過ぎないことを注意しなければならない。尤も其が学問性を完全には規定し尽し得ないからと云ってそう云うのではない。そうではなくして寧ろ教導性概念それ自身の立場から云ってこの規定が抽象的なのである。というのは、教導性の概念は別に如何にして教導性を獲得するかというそれ自身に就いての顧慮を含んだ概念ではないからである。凡そ或る概念を分析する場合、それが観念的に有つ規定ばかりではなく、又それが実践的にもつ規定をも指摘しなければならないとすれば、学問性の概念――それが今は教導性であった――に於て、この教導性概念は学問性の(即ち又教導性自身の)観念的規定のみを指摘するに過ぎないと云うのである。何故そう考えられるかを私は他の概念を借りて明らかにしよう。法概念は人々が常に絶対的にそれに服従すべき筈の規定を持つものと思われる。もし人々が之に服従しないと仮定するならばもはやその概念が成り立たないようなそのような概念で法はあるのである。之は無論之だけとして何の謬りも含みはしないであろう。之が法概念の観念的規定である。処が吾々はこのような云わば自然法概念に対して又、法の歴史的概念を持っているであろう。歴史的法概念に対しては、観念的法概念は必ずしも自分の規定をそのまま強制することを得ないと考えなければならない理由がある。却って何かの非合法的な行為によって――而も法の・正義の・概念それ自身の名に於て――法が歴史的に変革して来たことは事実である。それ故法に対して実践的に取引をしよう――それが法の歴史を成すのである――とする時、事実人々は法の観念的規定だけからは多くを期待出来ないであろう。法の観念的規定はすでに成立せるものとしての、又はその成立の如何を問題にしない理念としての、法を説明することは出来る。併し別に如何にして或る法を獲得すべきかという――而も法概念それ自身に就いての――実践への顧慮を含んだ規定ではないのであるから。このようにして法概念に於て観念的規定と実践的(現実的)規定との対立を分析することが出来ると思われる。そして観念的規定は実践への特殊の顧慮をその内に含まぬ点に於て抽象的であるのである。概念分析の一例として挙げた上の場合はそのまま教導性の概念にも当て嵌まらなければならない。教導性は学問性が何であるかを説明する、そしてその説明はそれだけとしては正しい。けれどもこの概念は別に如何にしてその概念自身を実践的に実現するか――如何にして教導性を獲得するか――ということに関する顧慮を含んだ規定では決してない。教導性はそれ故学問性の観念的規定に外ならない、それは従ってこの意味に於て抽象的規定に過ぎないと云うのである。さて、学問性の(又教導性の)具体的(現実的)規定――それは実践への顧慮を計上した規定である――として吾々は何を持っているか。
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