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分析の結果の凡てを一言によって云い表わせば、学問の性格は方法である。学問が単に観念的概念として理解されることに安住出来ず、更に実践的概念として理解されねばならぬとすれば――そして吾々は絶対にそれを要求する――、学問概念の性格は方法概念でなくてはならない。さて此の方法の概念が(第一)研究法、(第二)科学的概念構成、(第三)科学的世界の基礎、(第四)学問性、の四つの根本的な形態をとる。それ故方法概念のこの四つの形態に応じて、方法に就いての考察――科学方法論――の四つの形態が必然となる。併し私は第一の場合を形式論理学に一任しよう。その代り第二の場合に於ては、独り方法の考察ばかりではなく、対象の省察をも加える必要を、吾々は有つであろう。故に、吾々の科学方法論は、今から四つの兵站を通過しなければならないであろう。(第一)対象に対応しては「学問の分類」、(第二)概念構成としての方法に対応しては「科学論」、(第三)科学的世界の省察としての方法論、(第四)学問性の省察としての方法論。

向に、特定の対象に特定の方法が対立すると云った。その時、特定という言葉はただ任意を否定する目的にのみ用いられた。今や之に次のことを付け加えなければならない。第一にそれは唯一を意味するのではない。唯一の対象と唯一の方法とが必ず一対一の関係にあることを必要とすると云うのではない。唯一でなくして幾個でも好いがただ任意の数であってはならないと云うのである。又唯一の甲ではなくして乙でも丙でも好いが、ただ任意のものであってはならないと云うまでである。或る一定された範囲の内に於て対応関係が成り立たねばならぬことを、それは云い現わしていたのである。その範囲が実際どのようなものであるかは問題としないが、少くともこの範囲は任意でも唯一でもない処の一定――特定――でなければならない。それ故第二に、特定とは一定不変を意味してはならない。対象も方法も決してどのような意味ででも不変と考えられるのであってはならない。却って常に運動し得る(変化し得る)可能性を有っていると考えられなければならない。ただその変化=運動が任意の変動であってはならぬと云うまでである。かかる運動は浮動と呼ばれるような運動ではなくして意味ある運動である。自然界の運動に於ても、意味ある運動は名前を与えられているように――円運動とかジグザグとか――この運動も亦後に名称を有つことが出来るであろう。すでに何かの運動が可能であることが必要であった。どのような運動が実際に存在しているのであるか。――私は論理的分析を出発の手懸りとして事実の分析に這入って行くのが目的である。

*Rickert-DieProblemederGeschichtsphilosophie-S.15―25参照。

暫くして又云つた。「マドモアセユは実に美しい体を持つています。脂肪は少しもない。筋肉は一つ/\浮いている。Foxterriersの筋肉のやうです。腱がしつかりしていて太いので、関節の大さが手足の大さと同じになつています。足一本でいつまでも立つていて、も一つの足を直角に伸ばしていられる位、丈夫なのです。丁度地に根を深く卸している木のようなのですね。肩と腰の濶い地中海のtypeとも違ふ。腰ばかり濶くて、肩の狭い北ヨオロツパのチイプとも違ふ。強さの美ですね。」

人間理性の発達に基いて歴史的に三つの時代を画し、之によって又学問の三つの形態を与える試みは、普通コントが之を代表すると思われているが、ヴィーコに已に之を見る*。併し其の影響が最も大きく又著名なのは無論コントの思想であるであろう。彼が神学的・形而上学的・実証的の三つの時代を区別し、前二者を過去の又は棄て去られるべきもの、ただ実証的精神に基く学問のみが現在あるべき又将来を支配すべき学問形態であると考えたのは、人々の知る処である。此のラテン的とも云うべき歴史社会的考察は直ちにプルドンによって伝承された**。彼はコントの法則に従いながら彼自身の言葉によって次のような区画を与えている。宗教・哲学・科学、即ち、信仰・詭弁・方法(方法は形而上学と呼ばれる)。――コント及びプルドンが与えた学問の歴史的分類(それは普通の意味での学問の分類を脱しているが)が、ヴィーコの夫と全く同じい不充分さを分たなければならないことを、繰り返す必要はない。吾々は学問の歴史的分類ではなくして現在の分類――たとい過去の夫々の時代の現在であろうと――を要求する動機を有つ。処が次にコントが他方に於て、単に学問の段階を歴史的に配列したばかりではなく、諸学問をば、単純―複雑、独立―依存の関係に於て、並列的に――歴史的にではなく――分類したことを、吾々は注意したい。実証的諸科学は、数学から始めて社会学・歴史学に至るまで、この秩序に於て段階づけられる(この分類法は恐らくホッブズから始まるであろう)。コントによれば諸学問は系列的に――歴史的に又並列的に――配列されて分類せられるのである。

このような批判概念を以て学問性を規定し尽すことは出来ないが、併し学問性にとってこの規定程重大なものを見出すことは出来ないであろう。その外観・その形骸に於て学問らしく見えるものもこの規定をただ一つ欠く時、それは学問性の精神を全く有たないものと考えられるであろう(曲学の概念は茲に生れる)。唯名上の学問性を具えている廉を以て、学問らしい威容を有ちながら俗流と一致すべく通用する処の、没批判的理論を吾々は常に眼にしないであろうか。又事実諸々の問題を解決し得る有力な理論でさえも直ぐ様学問性を有つと想像することを吾々は控えねばならない。何となれば一旦提出された問題は、如何なる根柢の上ででも、その根柢自身の批判とは無関係に、必ず一応は解かれ得る性質を有っているからである。そして序に、学殖・博学なる知識それ自らだけでは(之は元来学問性概念とは一応別であったのである――前を見よ)、学問性を有つことが出来ないことを述べる必要があるであろうか。ただ社会的規定に対するこの批判性に於てのみ、真理性のこの獲得に於てのみ、真理の所謂価値という言葉も純粋な意味を受け取ることが出来、そしてかかる真理性の獲得によってのみ、この学問性によってのみ、学問の所謂自由というものも唯名的性質を脱することが出来るであろう(学問に於ける自由――それこそ学問性である――は何か「強制の欠落状態」というようなものであるのではなくして、批判的気魄の存在であらねばならぬ)。学問の所謂神聖は茲に於て初めて保証されるのである。――かくてこのように根柢的な批判性に於て、学問性は夫のもつ真に実践的な規定を、初めて示すことが出来る。何となれば社会的規定こそは真に実践的な規定であるであろうから。――さてそうすれば、このような学問性――根柢的批判性――は方法に属するかそれとも又体系にぞくするか。かかる批判は体系の有つ名ではなくして方法が有つ名である外はないのである。批判的体系なる言葉はあるにしても、もし批判がこのような意味での――根柢的な――批判であるならば、批判という体系、なる言葉は事実上意味を有つことが出来ないに違いない。批判は方法概念にぞくす。批判が実践的な――社会的規定に対する――批判であり、又方法が元来実践的概念であったのだから、之は至極当然でなければならない。そしてこの方法こそが初めて真理性獲得の手段――それはプラグマチズムの場合の方法概念であった――でもなければならないであろう。何となれば根柢的・批判的・方法に於てのみ、どの問題も解決されるべき正当な仕方に於て解決される見込みが初めて立つのだからである。――今や吾々は、方法概念がこの点に於て体系概念を優越する必然性を遂に知ることが出来た。学問性の一規定としての批判概念に於て、学問の方法概念はその中枢的な規定に出逢う*。学問性は方法である。

「本当?」

私は仕方なしに、また、祝杯を挙げた。

「あの人が此処を出たのが一時頃だつたから、恰度丑満時だらう。今夜も出るかも知れないから、皆なで正体を見とゞけに行かうではないか。」

B――其処に俺の看病に疲れて眠ってる妻は、俺が死んだらどうなるだろう、それから、子供や、両親も……。皆が俺を頼りにしているのだ。

大里あの論文は、しかし、加来君としてはちよと、味噌をつけたね。結局、調べが足りんのだよ。

私は国民の一人として考へます。

悲しいのではない。悲しいといえば、誰も彼もみな悲しい。お父さんも、お母さんも、姉さんも、手塚さんも、作家先生も、みな悲しい。だが、私だけは、ちっと違う。いとおしいほど自分が大切なのだ。大事な大事なものが、自分の肉体にあるのだ。処女……。私はそれを護り通そう。その名において、すべてのものに抗議をしよう。一寸の虫にも……と言われているが、大事なのは五分の魂じゃない。一寸の……いや、虫はいや。処女は虫じゃない。花みたいなものだ。たとえ小さくとも、何の役にも立たなくとも、清らかで香り高くさえあれば、必死に護り通してやらなければいけない。童貞処女を喪失してる世の中だ。反抗してやれ。

十七日フィティアに行く。
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