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三宅やす子さんも入らした。加藤弘之先生の許に居らるる時分から素ばらしい手を書いたが、今はペンの外お用いにはなるまい。
この対立は次のように考えることによって愈々鋭くなって来るであろう。研究の概念はその故郷から追われ学問が之に代った。吾々は研究の業績を研究と呼ぶことはある。併しそれは実際に研究する過程の一つの駅舎を実は意味するのであって、吾々は之によって駅舎から駅舎に進む研究という一つの旅を実は意識しているのであろう。研究の概念は研究することを意味するべく動機づけられているように見える。之に反して、学問の概念は学問された結果を、学問という文化現象を云い表わすべく使用されるように見える。研究は吾々の云わば動作を示す言葉であり、学問は吾々の云わば所有を指す言葉である。研究に於て吾々は吾々の関心が求める処の対象に出会う。方法・対象の交渉が之であった。そして茲に於ける存在はDaseinであった。之に反して学問にあっては必ずしもそうではない。成程吾々は学問に出会う。けれども関心されたもの、求められたものとして、それに出会うのでは必ずしもない。吾々は学問を偶々持ち合わせるのであるかも知れない。気が付いた時にはすでに学問が吾々の手元にあったのであるかも知れない。それは求められたのではなくして、却って吾々に押しつけられたものであり、そして吾々が之に全く見向く意志を有たない場合が少なくないであろう。学問そのものの存在は――学問の研究を云うのではない――直ちには世界に於ける存在ではない。そうではなくして世界の内に内在する存在である。学問の客観的存在とか社会的公共性と呼ばれるものが之を意味する場合は少なくないであろう。学問の存在は直ちにはDaseinではない。処で研究に学問が代ったのであるから、DaseinにDaseinならぬ存在――Vorhanden-Seinともいうべき存在――が代ったわけである。処が方法の概念はDaseinにぞくしていた筈であった。それ故この概念は本来から云えばもはや学問にはぞくさない筈なのである。もしそれにも拘らず学問に就いても亦方法という概念が用いられるならば、それは学問から学問の根本をなす研究にまで帰って、そこから間接にその概念使用の動機が与えられるのである他はない。研究の方法に対して学問の方法とはこのような手続きを含む言葉でなければならない。この場合の方法概念は其の本来の地盤を遊離した意味を獲得する。従って之は前に決定された方法概念に必ずしも忠実ではあり得ないし、又そうある必要もない。それ故今や人々は学問の方法という概念の下に例えば学問の基礎一般を理解する傾きを持ち、又学問の基礎に就いての一般的考察が方法論的として形容される理由がある。学問の基礎づけが方法論としての形態を取り、或いは又それが方法論と名づけられる根拠は以上の構造の内にあるであろう。
細木わりによく話されます。心臓がもう極度に弱つている筈なのに、どうしてあんなに呼吸がつづくかと思うくらいです。
*学問性に就いて深さと厳正とを対決せしめたものは例えばフッセルルがディルタイに対して与えた批評である。吾々にとっては併し、批難されるべきものは深さそのものではなくして非方法的な深さに他ならない。又厳正なる方法のみが代表的な学問性であるとも考えられない――後を見よ(Husserl-PhilosophiealsstrengeWissenschaft-Logos.参照)。
○矛盾は軽蔑するべきものでしかないようにかかれていた
あれを描く気になれないのは、どうしたわけであろうか?
冬菜でも、見当違ひのことは、あんまり、おつしやらない方がいいわ。
その津和野から東京へ出て來たのが、お尋の十四五歳の時であつたと思う。どうも何年何月であつたか、空には覺えていない。
第三部
芸術至上主義者であって、そうあり切れなかった彼[#「彼」に枠囲み]社会と芸術についての二元的な動揺を統一的な均整におこうとしたすてばちな努力
対象の区別を原理として学問を分類することは、従来の学問分類の殆んど大多数を支配する特色である。そしてこのことは決して偶然ではないであろう。何となれば吾々は已に学問がもつ対象―方法の存在論的構造に於て、何故学問が対象によって分類されるのを普通とするかを、理解しておいた筈であったから。事実、学問分類の問題は対象概念と離すことの出来ない対応関係にあると考えられた(之に反して科学論の問題に対応するものは方法概念であった)――前を見よ。併しその時と同時に又吾々は、学問の性格が――そしてこの性格を理解する一つの道が学問の分類を動機づけたのであった――結局はその対象にあるのではなくして、正にその方法になければならない理由をも見た(この理由は方法概念の実践的優越にあった)。学問の分類がより根柢的・性格的であるためには、それ故之は対象による分類から方法による分類へと移り行かなければならない。
「窓から乗るんですか」
「あれを買うって?」
二十二Betrothalに行く約束があったので、Aに電話をかける。少し喉の工合が悪いと云う。気の毒に思いながら行く。二度目。マティネー。夕方早くB-wayを歩いて帰る。せわしい夜のB-way
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