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「すこしありますよ、私はいたゞかないから、貰つたのをそのまゝにしてありますよ、」
一般に、事物の分類の原理を見出す時、それは直ちに統一と整正との欲望を伴い、この欲望は又直ちに事物の現実に於ける多角性を忘れさせて体系的な調和を夢みさせ勝ちである。人間の理性に恐らく普遍するこの性質――弱点であり又長所である――が、或る条件の下に現われたものが、吾々のよく見る、学問のかの仮空的分類である。そしてこの性質は学問の分類という概念のもつ必然性に基く、之を後に再び吾々は見るであろう。
「ふーん。ミネちゃんのお父つぁんやお母はんは……?」
哲郎は女の顔を見るのがまぶしかつた。
どのような個人も、誤謬さえ含まなければ必ず同一の論証の結果に到着しなければならない、という意味に於ける普遍性は、なる程透察にはない。併し、二人の個人が、別に誤謬と考えられるような欠点を有たないに拘らず、二人は異った二つの透察に到着することが出来るであろう。相互に相手の透察の誤謬を指摘し得たと考えている時でも、第三者の立場に立って公平に判断するならば、二人が同じ程度に正確な分析によって透察しており、従って夫々誤謬を含むとは考えられない尤もな主張を有つ、場合は事実あるであろう。主義のもつ学問性――真理性――は多くそのような性質をもつ。凡そ理論がもしその個性を意識されるのでなければ主義と名づけられる理由はあり得ないであろう。凡ての人々によって承認され従ってその限り実際個性を意識されないような事柄――例えば地球の回転――に就いて、主義を云々することには意味がない。ただローマ法皇の思想に対してのみ之はガリレイの主義であったであろう。主義――それは透察の一つの性格である――は常に個性的性格的でなければならない。二つの主義はそれ故、それが夫々真理であると考えられるにも拘らず、必ずしも同一であるとは限らない。透察は超個人的普遍性を有たないのか。
「少なくともヨーロッパの四大国民の名は、いずれもみな外国の名である。フランスの名称は、ライン河の西岸に棲んでいたフランク人から来たもので、この国民の祖先たる古のケルト人とは、何の因縁もないのである。イギリスの名は、もとドイツの一地方から来たもので、アングロサクソン民族とは、何の血族上の連絡もないのである。ロシアの名は、もと北方の起原で、スカンジナビアの一民族たる、ロゼルの転訛したものである。プロシャはプロイセンというスラブの一蛮族の名で、十二世紀の終り頃に、ドイツにはいったのである。」
科学方法論という名によって呼ばれる顕著な課題の意識を促した功績は、主としてリッケルトの科学論に帰せられなければならないが、この科学論それ自らは、科学方法論一般の一つの特殊の場合に過ぎないであろう。それは方法概念の運動に於て、その上限と下限として、科学の学問性の考察と科学的世界の基礎の省察とに接しており、その発生の動機に於ては科学の分類から糸を引いている。そして之が提出する問題は、現在重大な一つの問題として、社会科学の問題と相隣りしているのである。科学論はこのようにして科学方法論一般の云うならば網の上に懸っている処の一理論である。処が更に、科学方法論それみずからが又一つの網の上に懸っているものに他ならないであろう。というのは科学方法論は科学に就いての特に方法を中心とした中枢的な理解であったから、それは一般に学問論――これを向の科学論から区別しよう――の一つの特殊の場合に過ぎなかった。科学方法論は科学論の内に於て一定の限られた限界を与えられている。そしてこの限界に隣るものは、例えば真理の理論、認識又は知識の理論、又学問の社会的機能の考察、等々であるであろう。科学方法論は特殊の学問論に過ぎない。
「ほな、撲られに帰るいうのやなア」
A――死と共に一切が亡びてしまうことは、俺にとっても同じだ。ただ俺は、生きるも死ぬるも、どちらだって構わない。そんなことは俺の知ったことではない。生きてる間は甘んじて生き、死ぬる時には甘んじて死ぬ、それが俺の態度なんだ。
女は顔を此方に向けた。
征服者とてもまた同じことである。奴隷の腐敗と堕落とは、ひいて主人の上にも及ぼさずにはやまない。また奴隷には奴隷の不徳があれば、主人には主人の不徳がある。奴隷に卑屈があれば、主人には傲慢がある。いわば奴隷は消極的に生を毀ち、主人は積極的に生を損ずる。人として生の拡充を障礙することは、いずれも同一である。
大里なるほど……。
大里診察はすんだんですか。
論証的学問性と透察的学問性とは、夫々、自然科学と歴史科学との学問の性格を解明する。そしてこの学問性の相異に基いて、吾々はリッケルトの科学論に於ける根本的な動機を解釈することが出来る、それを今示した。二つの科学の分類も亦この二つの学問性の区別によって初めて根本的に示され得たであろう。
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