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「ほんまに、そやなア」
「往つても好い、構はないんですか、」
あの前の日も、ばかなことがあった。
処が次に方法概念の運動はやがてこの方法概念をして対象概念と一致せしむるに至る場合を私は前に指摘しておいた。方法概念は形式論理学に於ける方法概念から科学論に於ける夫へ運動したばかりではなく、更にそれを通過して例えば物理学に於ける相対性理論に於ける方法概念へまで運動する理由があった。この最後の場合に於て、方法はもはや単に方法ではなくして方法並びに対象でなければならなかった。それは対象としての方法でなければならなかった。そこで学問は又この対象としての方法なるものによって分類されることが出来ねばならない筈である。但し今の場合を次のような場合として理解するならばそれは誤解である。例えば学問を論理的なるものと物理的なるものとに分類したとして、その分類の原理が、対象によって与えられると同時に方法によっても与えられる、と考えられる場合であってはならない。というのは、論理的学問と物理的学問とが、その対象からすれば可能界と現実界とに分類され、而もこの同じ分類が、推理と実証という方法の区別によっても亦同じに与えられる*、というような場合が今の場合であるのではない。そうではなくして同一の分類原理でありながら、その分類原理が同時に対象でもあり方法でもあるような、そのような場合を今は云うのである。対象と方法との合致――対象としての方法――それは科学的世界の基礎を与える処のものであった。かかる世界の基礎の相違が学問分類の原理とならねばならぬのが今の場合である。科学的世界の基礎の一例として吾々は前に物理的空間の概念を提供したであろう。この空間が基礎となって物理学的世界が科学的に成立することを得、この成立の仕方と他の仕方との相違によって、物理学は他の多くの科学から区別されることが出来るであろう。之と同じく、例えば歴史的世界の構造連関が歴史的世界を成立せしめ、この成立の特性が歴史学を他の諸科学から区別する原理を与えるであろう。かくて例えば自然科学と精神科学とが、夫々の科学的世界の相違によって区別されることとなるであろう。――普通行なわれる処の、自然と精神との区別、それによって所謂自然科学と精神科学との分類が与えられるのを普通とするのであるが、この区別は、二つの対象の区別と考えられるのが普通であるにも拘らず、より根柢的に見る時、世界の区別によって与えられるものでなければならないであろう。この世界の科学的表現に他ならない科学的世界の基礎が単に対象ではなくして、恰も対象としての方法でなければならないのである。――かくて科学的世界の区別、夫が学問分類の原理となる場合が可能であるであろう**。後にそれを見よう。
さて(未見)の事実を決定することは論証によって成り立つことが出来る。論証するには、予め論証に先立って、又論証の過程の全行程に於て、直観又は直覚と名づけてよいものが働くことは認めるとしても、それにも拘らず、事実は論証という形式的過程によって、決定されるものである。論証し得ない事実は決定されたことにはならない。もし論証し得ないにも拘らず或る事実を決定し得たと思うならば、それは決定ではなくして盲断に外ならないであろう。事実の決定はただ論証によってのみ与えられる。故に事実決定の真理を獲得することを目的とする学問性は論証的学問性と呼ばれる理由がある。厳正――それは精密をも含む――はかかる学問性にぞくした。――処が、事実が吾々に対して有つ意味を理解すること、事実の解釈は、論証のみによっては成り立たない。無論事実の解釈に於ても――それは必ずしも事実の決定ではないかも知れないが意味の決定とは呼ぶことが出来る――論証を容れる余地はあるし、又余地のある処には論証をまなければならないではあろう。併し吾々は事実解釈の当否を論証し尽すことは出来まい。論証し尽すことが出来ない最後の要素は、解釈の当否が混沌として収拾し難いから論証され得ないのではなく、却って論証を容れる余地がないという意味に於てそれ程明白であると考えられるから論証され得ないのである(但しこの明白さは事実がもつ明白さではなくして事実が吾々に対する意味のもつ明白さである)。論証し尽されない点を却って吾々は論証し得ないという意味に於ける直接性に於て理解している(事実の明白さならば吾々は之を直観的に明白であるという意味に於ける直接性に於て決定しているであろう)。直接性に於て理解すると云っても、何の手続き――方法――をも加えずして、居ながらに把握出来るというのではない。明白なるものの直接の理解は、論証によって初めて明白になるのではないという点に於てのみ、直接であるのであって、所謂直観――それは論証の基礎にもあると考えられる――のもつ直接性では夫はない。論証的ならぬ理解は常にただ分析によってのみ齎されるのである。但しこの分析は事実が吾々に対してもつ意味を分析し得るような分析でなければならない筈である。それは例えば数学的分析や、吾々への意味を媒介としない事実の諸関係に固有な分析であってはならない。分析はこの場合、論証的ではなくして透察によって行なわれる他の道を有たないのである。吾々は透察している。――かくて論証の限界は透察であり、論証的学問性の限界は従って、透察的学問性でなければならない。透察的学問性、それは事実解釈の真理の獲得を目的とする場合の学問性の外ではない。
そして両極たる征服階級と被征服階級との中間にある諸階級の人々は、原始時代のかの知識者と同じく、あるいは意識的にあるいは無意識的に、これらの組識的暴力と瞞着との協力者となり補助者となっている。
三月三日三井物産の人達が御飯に呼ぶ。
吾々が実在に通達し得ると考えられるのは数学を通じてではなくして経験科学を通じてであった。――実在の個別性は、経験科学にとって異質性なるものとして残っている。問題をそれ故経験科学に限ろう。実在の単純化――方法――は併し無論人々の勝手であってはならない、それには或る一定のアプリオリがなければならぬ。経験科学が連続的な実在から不連続を単純化し出す時、即ち実在と実在との間に区画を施す時、このようなアプリオリを原理として之に従わなければならないのであるが、選択の原理が正にこのアプリオリなのである。単純化とはこの場合実在から或る一定の原理に従って選択を行なうことに外ならない。或る一定の見地に立って本質的なものと非本質的なものとを分ち、本質的なものだけを抽き出すことによって、科学的概念は構成される。科学の方法は選択の原理――それは方法がそうあると同様に形式的性格を有つ――にある。或る一定の特殊科学に就いて、無論選択の原理は、その方法は、唯一でなければならない。併し元来選択は一定の見地に立つのであったからして、一切の経験科学に就いてこの原理が同一でなければならない理由はない。そして選択の原理を異にすることによってこそ、方法の相違によってこそ、様々の異った特殊科学が生まれて来ることが出来る。故に経験諸科学は再び方法――選択の原理――によって分類されることが出来る筈である。かくてリッケルトによれば経験諸科学は、自然科学と歴史科学という特殊科学の主なる二群へ、方法論的に、形式的に――それは内容的に対立して意識されねばならぬ――分類される*(之に反して内容的には自然科学と文化科学とに分類される――後を見よ)。
その時云ひそびれたので、後になつて私は、あの晩の自分のことを説明したのだが、何故か誰もそれを信じなかつた。そして夜になると仁王門の傍らを独りで通るのを皆な嫌がつた――私も――。
真夜中である。電燈の直射を布で遮つた薄暗い病室には、今、加来博士の臨終を見守る数人の親しい顔が集つている。
「しかし、驚きましたなア。もっともロミオとジュリエットは窓から……」
と、うっかり(というより寧ろ本心から)そう答えてしまい、これでは手ぶらで帰るより仕方がなかった。
女――そう、ではどうぞ。……あなた、今日は御気分はどう。
*科学論の動機は之だけに止まるのではない。その動機は後の機会に至って次第により根柢的に辿られるであろう。今は一応之に止める。
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