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方法的理解――方法を中心とする中枢的把握――と云ったが、併し方法とは何であるか。無論私は学問(乃至学問研究)の方法に就いて答える。そして夫と反対――反対の意味は後に説明される――なものを通じてそれを分析するのが適わしい。方法に反対なるものは対象である*。対象は方法の目的であり、方法は対象の出発点であると云ってよい。吾々が方法によって通達するもの、それが対象である。処で或る特定の対象に対して或る特定の方法があるのが至当であると思われる。もし任意の対象に対して任意の方法が適わしいとすれば、特にこの学問の方法というような事を吾々が問題としてそれに関心を有つ理由がない筈である。処が方法が吾々にとって抑々問題となるのは、之がこの学問又はかの学問の夫々の性格を云い表わすからであった。故に特定の対象に対して特定の方法が対立する。今仮に、特定の方法と之に対する特定の対象という二つの既知の概念を用いて、さし当り最も形式的な出発をとるとすれば、論理的に必然な選言として次の四つの場合が現われて来る。(一)対象が方法を決定するか、(二)方法が対象を決定するか、(三)それとも対象でも方法でもない第三者が両者を同時に決定するか、(四)それとも又方法と対象との相互決定であるか。何となれば、特定なものとそれに対立する特定なものとの間の関係を、最も一般的な言葉をかりて、決定と呼んでよいから。恐らく第一の場合は、素朴的乃至独断的、或いは或る意味に於ける実在論的立場と呼ばれるものを云い表わし、第二の場合は「コペルニクス的転回」を経た批判的乃至或る意味に於ける観念論的立場と云われるものを代表するであろう。けれどもこの二つの立場の是非は、或る手懸りを得た後に初めて決定されるべきであって、始めから之を決定して出発することは吾々にとって不利である。何となれば方法と対象との内、何れかが特に優先権を有つ事は形式的出発としては許せないから。第三の場合は方法と対象とへ同じ権利を与える点に於て形式的に整っているには違いない、けれどもその第三者とは何か。吾々は今方法と対象との二つの概念しか知らない。第三者は「或るもの」の外何とも云うことは出来ない。処がそのような「或るもの」から出発することは常に不可能である。何となれば或るものとは、何物の手懸りにもなることが出来ないという意味に於て、一つの逃避的概念であるからである。たとい方法と対象との総合がそれであると云っても、その場合のように単に総合するための総合こそは、折衷の概念がそれを説明しているように、一つの代表的な逃避的概念に外ならないであろう。かくして残るものは第四の場合――相互決定――だけである。第一にそれが形式上の整備を有っていることは明らかである。次にそれは出発の手懸りとなることが出来るに違いない。相互決定の概念が決して逃避的概念ではなくして生産的な概念であることを、私は次第に明らかにして行けるであろうから。
「ほう、雀ね。好きかい。」
お父さんはもう泣いている。
学問の――思考のではない――形式を取り扱う学問は形式論理学でもなく又応用論理学でもない。それであるのになお一つの論理学と考えられる理由があるであろう。その理由はこうである。カントの根本思想を借りるならば(この思想が何故今の場合必然性を有つかは後を見よ)、吾々の精神内容は形式と内容との結合として説明される。そして形式は内容の不可欠の条件、その意味に於て論理的予想と考えられる。そうすればこの形式は凡てこの意味に於て論理的でなければならない。そうすれば又学問の形式も論理的でなければならない。そうすれば最後に、この形式を取り扱う学問は今の意味に於て論理学の名に価するわけである。故にもし学問の形式という概念を取り出すならば、それの省察は又一つの――但し形式論理学でも応用論理学でもない処の――論理学であることとなる。思考の論理学――その系列にぞくするものが形式乃至応用論理学であった――に対立する論理学は一般に、客観論理学か先験論理学である。今の場合は先験論理学の名を取ろう。学問形式の理論は先験論理学にぞくする(先験論理学はカントの立場に外ならない)。――処が、学問の形式は、再びカントの立場に立って、学問の方法と考えられる。何となれば形式はカントによれば内容を統制して認識を齎す機能に他ならないが、認識を齎す機能こそ方法ではないのか。学問の形式は学問の方法である。故にカントの立場に於て吾々は次の帰結を得る。方法論――Methodologie-Methodenlehre――は先験論理学にぞくす、と。之が吾々の求めた「或る意味に於ける論理学」であった。故に又科学論は一つの論理学――先験論理学――と見做される理由が明らかとなった*。
「おおけに、ああ、温いわ。――おっちゃん、うちおなかペコペコや」
哲学を批判として理解する時(第一の場合)、それは実証としての科学から区別され、それを実証的ならしめる時、哲学は単に総合・集成としての全般的なるものとしてのみ特殊科学から区別される(第二の場合)。そして哲学又は科学を形而上学とする時、両者の区別はただ外面的――外延の大小――にしか存在しない(第三の場合)。吾々は科学と哲学との区別として少なくとも今挙げた三つの場合を、事実上有っているであろう。
この対立は次のように考えることによって愈々鋭くなって来るであろう。研究の概念はその故郷から追われ学問が之に代った。吾々は研究の業績を研究と呼ぶことはある。併しそれは実際に研究する過程の一つの駅舎を実は意味するのであって、吾々は之によって駅舎から駅舎に進む研究という一つの旅を実は意識しているのであろう。研究の概念は研究することを意味するべく動機づけられているように見える。之に反して、学問の概念は学問された結果を、学問という文化現象を云い表わすべく使用されるように見える。研究は吾々の云わば動作を示す言葉であり、学問は吾々の云わば所有を指す言葉である。研究に於て吾々は吾々の関心が求める処の対象に出会う。方法・対象の交渉が之であった。そして茲に於ける存在はDaseinであった。之に反して学問にあっては必ずしもそうではない。成程吾々は学問に出会う。けれども関心されたもの、求められたものとして、それに出会うのでは必ずしもない。吾々は学問を偶々持ち合わせるのであるかも知れない。気が付いた時にはすでに学問が吾々の手元にあったのであるかも知れない。それは求められたのではなくして、却って吾々に押しつけられたものであり、そして吾々が之に全く見向く意志を有たない場合が少なくないであろう。学問そのものの存在は――学問の研究を云うのではない――直ちには世界に於ける存在ではない。そうではなくして世界の内に内在する存在である。学問の客観的存在とか社会的公共性と呼ばれるものが之を意味する場合は少なくないであろう。学問の存在は直ちにはDaseinではない。処で研究に学問が代ったのであるから、DaseinにDaseinならぬ存在――Vorhanden-Seinともいうべき存在――が代ったわけである。処が方法の概念はDaseinにぞくしていた筈であった。それ故この概念は本来から云えばもはや学問にはぞくさない筈なのである。もしそれにも拘らず学問に就いても亦方法という概念が用いられるならば、それは学問から学問の根本をなす研究にまで帰って、そこから間接にその概念使用の動機が与えられるのである他はない。研究の方法に対して学問の方法とはこのような手続きを含む言葉でなければならない。この場合の方法概念は其の本来の地盤を遊離した意味を獲得する。従って之は前に決定された方法概念に必ずしも忠実ではあり得ないし、又そうある必要もない。それ故今や人々は学問の方法という概念の下に例えば学問の基礎一般を理解する傾きを持ち、又学問の基礎に就いての一般的考察が方法論的として形容される理由がある。学問の基礎づけが方法論としての形態を取り、或いは又それが方法論と名づけられる根拠は以上の構造の内にあるであろう。
蚤と蚊とは声をそろえて答えました。
(奥さんは、今、旦那さまとお書斎でお話をしてをりましてね、)
そして、汽車が動きだした。
**カントの物自体が感性を感触する処の原因であると云われる時、因果の範疇に就いて今と同じことが云われたことを思い起こす。
「度々舟に乗りましたか。」
人々が茲で方法と呼ぶ処のものは手続きであった、そして手続きは誘導性の実行を説明する概念であった。誘導性とは理論の連続に於て異議と曖昧とに出会わずして理論に通達し得ることを意味した。この意味に於て夫は理論的に無理なきこと――併し之は習俗的な尤もらしさから厳重に区別されねばならぬ――を意味した。そして間隙又は飛躍の無いこと従って綿密であることは、ただこの意味に於てのみ誘導性を保証するものである。それ故人は今や云うことが出来る、学問性は綿密なる――但し今の意味に於て綿密なる――方法(手続き)によって初めて保証されることが出来る、と。事実人々は或る理論が妥当であるか否か――即ち学問性を有つか否か――を見るために、まずその方法(手続き)が綿密であるか否かを検べるのを常とするであろう。全く始めから誘導的であることを心がけない理論は無論のこと、たといそうあることを心がけたものであってもまだ充分に綿密でない理論は、それだけ学問性を低く評価されるのが常であるであろう。かくて方法(手続き)の概念は第一に或る理論が綿密であるか無いかを云い表わす。繰り返して云おう、異議と曖昧とに出会うことなくして或る理論を追跡することが出来るか否か――誘導性を有つか否か――、之を示すものが方法(手続き)の概念でまずあるのである。
「君、やり給え!第一、僕や君が今日の放送であのトランクの主を見つけて、かけつけて来たように、君の放送を聴いて、どこかにいる君の奥さんやお子さんが、君に会いにかけつけて来るかも知れないぜ」
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