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多年の観察と思索とから、生のもっとも有効なる活動であると信じた実行である。実行の前後は勿論、その最中といえども、なお当面の事件の背景が十分に頭に映じている実行である。実行に伴う観照がある。観照に伴う恍惚がある。恍惚に伴う熱情がある。そしてこの熱情はさらに新しき実行を呼ぶ。そこにはもう単一な主観も、単一な客観もない。主観と客観とが合致する。これがレヴォリユーショナリイとしての僕の法悦の境である。芸術の境である。
「なる。おっちゃん、ミネちゃんのお父ちゃんやな。ほな、ミネちゃんのお母ちゃんは……?」
現代の日本演劇が、歌舞伎とその伝統の派生たる新派劇を主流とし、劇場文化の全面的水準をここにおかねばならぬ状態は、西洋演劇の技術的伝統が、アカデミックな階梯を経てわが国の劇壇に摂取されなかつたことに基因し、従つて、演劇人たるの夢想は、遂に、文明開化期の青年的野心と相容れざるものがあり、劇場は、果して商業主義の一途を撰ぶ外なかつたのではないか。
「阿呆いえ。そんな殺生な注文があるか。こんな時に、落語やれいうのは、葬式の日にヤッチョロマカセを踊れいうより、殺生やぜ」
細木しかし、先生の、さういふところが、僕は好きだなあ。決して、ただのセンチメンタリズムぢやないと思ひます。
国家の総力という点からみて、われわれの最も警戒すべき弱点は、恐らく、このへんにありはしないかと思はれます。しかし、これは決して、本質的な日本人の欠陥ではなく、いはゞ、外敵の侵入に脅かされたことのない国民の、暢気さが、日常生活の心構へを知らず識らず不徹底なものにしてしまつたのであります。
リッケルトの個別的因果の概念は今仮定された第一の場合ではなくして専ら第二の場合でなくてはならない。何となれば個別的因果の認識は彼によれば、普遍的法則的因果を手段として之を迂回することによって、その目的を達することが出来るものであったが、この迂回は同一の原因が同一の結果を伴うと考えられる場合を他にしては、許されないであろうから。個別的因果は個別的なる原因が個別的なる結果を、但し一定の原因は常に一定の結果を伴うという条件の下に、伴うことを意味しなくてはならない。そこでこの意味での個別的因果は法則的な普遍的因果に帰着し得るか。もし帰着し得るとすれば、少くともリッケルト自身の立場をそのままとる時、個別的因果の概念は成立の動機を失う筈であるし、もし帰着し得ないとすればリッケルト自身の立場をそのまま取ってもこの概念は成り立つことが出来る筈である。フリッシュアイゼン・ケーラーによれば法則的(普遍的)なるものも個別的なるものを含むというのであるから――次の批難を見よ――、個別的因果は普遍的因果に帰着すると考えられるわけである。尤もリッケルトの個別は単に別個のものを意味するのではなくして実は個性あるものを意味するのであったのに、フリッシュアイゼン・ケーラーの個別は単に別個のものを指しているに過ぎない――第二の批難を見よ――から、法則的(普遍的)なるものが個別的なるものを含むという言葉は、リッケルトの意味に於ては許されないのではある。併し元来そのような個性はただ価値に関係づけられてのみ初めて把握出来る――個別化がそれであった――筈であったから、価値関係づけを欠いた場合には本来の個性――個別――概念は実は許されない筈である。即ち価値関係づけ以後に於てのみ個性―個別の概念は成り立つことが出来、それ以前に於てはただ別個の概念しか成り立たない筈である。そうすれば個別の概念は歴史科学的概念構成――それが価値関係づけであった――に就いてのみ許されるのであって、歴史科学的概念構成以前の之と独立な直観的に与えられた事実(実在)に就いては許されない筈である。故にリッケルトが個別的因果を事実それ自身に具わったものと考える時、この個別の概念は本来の個別の概念から堕した或るものと考えられなければならない。そしてこの時それは単なる別個と実は択ぶ処がないであろう。そうすればフリッシュアイゼン・ケーラーが、個別的因果――それは実は単に別個なるものの因果の外の何物をも意味しない――は普遍的因果に帰着する、と主張する時、その主張は正しいであろう。従って個別的因果に対する向の批難は正しいであろう。
ロダンの目は注意して物を視るとき、内眥に深く刻んだような皺が出来る。この時その皺が出来た。視線は学生から花子に移つて、そこに暫く留まつている。
「しかし、今は歌が……」
今や一般的にこう結論することが出来る。方法概念は最後に、学問性の概念として現われる。ここに現われた方法概念は、もはや単に、任意の対象を取り扱う研究の方法でもなければ、科学的概念構成の手続きを意味するのでもなく、又科学がもつ科学的世界の基礎として現われるのでもない。方法概念のこれ等様々の形態が終局に於てそれに帰着し、又之にその根柢を持っている処の、学問にとって恐らく最も意味の重い方法概念が、学問性であるであろう。
夏の暑い日になまけものがひるねをしておりますと、蚤と蚊が代る代るやって来て刺したり食いついたりしました。なまけ者は怒りだして、
A――死と共に一切が亡びてしまうことは、俺にとっても同じだ。ただ俺は、生きるも死ぬるも、どちらだって構わない。そんなことは俺の知ったことではない。生きてる間は甘んじて生き、死ぬる時には甘んじて死ぬ、それが俺の態度なんだ。
冬菜雑誌社の方ね。大里先生、かういふ方は、どうしたらいいんでせう。あたくしが出て、ただお礼を言へばいいかしら?
交換手は笑って、
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