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二月一日IdealhusbandをMissWellsと見る。
ところが、現在わが国に於ては「上等な劇場」といへば、「場代の高い劇場」の謂であり、必ずしも、「程度の高い」ことを意味せず、はつきりいへば、商業劇場は一つとして、「精神的娯楽」のために存在してはいないのである。
三十日ハムレットを見る。
とにかく、まあ、なんといふ込み入つた、いろんなことを考へさせる作品だらう。考へ出せば切りがありあしない。それも小林が書いたことそのものより、その書いたことからあいつが何を書かうとしたかを引き出して行けば行くほど面白くなるのぢやないかしら。さうなると作品の出來不出來なんぞは問題ぢやなくなつてくる。こつちですこし本氣になつてそれに向つていると、作者自身が大へんなものにぶつかつてしどろもどろになつている樣子がはつきり浮んでくるが、しかしそれは作者の方ばかりぢやなしに、こつちまでひどくしどろもどろにさせずには措かないような、底の知れない、氣味の惡い作品だ。
以上述ぶる所を總括すれば、尚書は最初周公に關する記録が其中心であつたものと想像される。尤も今日の五誥は儒家が持ち傳へている間に各の時代の語を以て古語を取り替へた跡があるのであつて、それは例へば史記が訓詁の詞を以て本文を替へたことが、古文今文の議論を外にしても確かに考へらるゝと同樣である。此等の篇が現存の毛公鼎や其他の金文に比すれば文從字順で讀み易い傾のあるのは即ちそれが爲めであると思う。而して儒家思想の發展に伴ひ、次第に本文に變化を來したのであつて、其の初め魯を王とする説、孔子を素王とする説であつたものが、他の諸子との競爭上、道統を古きことにする必要より典謨の諸篇が附け加へられ、儒家が六國に用いられ、曲學を爲す必要より、甫刑以下の各篇が順次に附加せらるゝに至つたものであらう。此變遷は既に伏生が尚書を世に出す前に於て行はれつゝあつた所で、その間には儒家の傳へた尚書と墨家の傳へた尚書との間に相違ある如く、儒家の間に在りても各分派によりて夫々異つた本文を傳へていたのであるが、それは漢以後伏生の尚書によつて統一された爲めに、他の者は皆形を失つてしまつたのである。これだけの變化のあつたことは、尚書を研究する際、先づ考へて置く必要があらうと思う。
このような自由芸術としての学問は他の自由芸術から区別されねばならないが、今は、最も広い意味に於ける詩――それは学と最も密接な関係を有つ――から之を区別すれば足りる。詩は或る意味に於て学問と非常に似ているであろう。詩は想像に基くとよく云われるが、学問も亦特にそれなくしては研究を進めることが出来ない。丁度事物への感覚――その働きの一つが実は想像と呼ばれるものに他ならない――を欠いた詩が感傷に終らなければならないと全く同様に、感覚なき学問は単なる博識に終るであろう。学問がimaginatioに基くという言葉は茲にもその意味を有つ(一例としてデカルトを挙げよう*)。そればかりではない、或る特定の学問は詩と全く同じ能力に基き同じ使命を有つとさえ考えられる。「哲学は芸術と全く同じく生産的能力に基く。」「平俗な実在から逃れ出る道はただ二つである、吾々を観念界に移す処の詩と、吾々の眼前の実在界を全く消滅せしめる処の哲学と**。」併しながらそれにも拘らず人々は無論両者の間の重大な区別を見逃してはならない。両者がたとい同一の生産的能力に基いても、両者は已に「生産能力の方向を異にしている***」のでなければならないからである。そして或る他の一つの意味に於ては、却って詩ほど学問を遠ざかっているものはないであろう。詩は想像に基くと向に云った。処が学問は之に反して、今の場合の意味に於ては想像に基くのではなくして、正に理性に基くのでなければならないと考えられる***。そして理性は想像とは正反対な概念であるであろう。事実人々は、学問と詩との乖離を嘆き、又学問と詩との分離を誇る。さてこの両つのものの区別の原理は何処にあるのか。人々は知識(認識)概念をかりてこの区別の標準を求めるかも知れない。併し吾々は学問性の概念の有無を以て之に答えることが出来る筈である。その分析を吾々は前にすでに行なっておいた。
衰弱は日に日に募つた。近所の主治医が慌てふためいている様子に、細君の冬菜は気が気でなく、夫のためらふのを押し切つて、同じ大学の医学部教授で内科専門の早見博士を立ち合ひ診察に来てもらふことにした。
オレはとても悪いことをしている子供のように素直にしたがった。里奈は車を降りるときにオレにこう言った。
「蓄音機は司令部へ行ったぜ」
「――しかし、何を言えばいいんだろう。いや、俺の言いたいことって一体何だろう」
「下宿でもしているんですか、」
よくもこれだけの名前をつけられたものだと思う。
「どうぞ。」
*学問の分類が精神能力の区別によらずして学問それ自身の性質に依らなければならないことを述べた者にすでにカンパネラがあることを注意しよう。
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